こんにちは。
日中の暑さから、微かに秋の涼しげを感じられるようになりましたね。
みなさん、感染予防及び熱中症にも気をつけてくださいね!
それでは!今日の本題に入ります!
前回はサッカーを初めてから小学校時代を振り返っていきました。
今日は大きな転機となった中学校時代についてお話しさせていただこうと思います。
まずは・・・
まずですね、小6でクラブチームのセレクションを5つ受けました。
(浦和レッズ、大宮アルディージャ、三菱養和巣鴨、STFC(旧帝京FC)、コンソルテ)
自信に満ち溢れてました。結果、コンソルテしか受からなかったんですね。
正直、もっと選択肢があると思ってました。
自分の地元は新座で、学区を変えて少し強い新座二中にいくか、コンソルテに入るかの二択でした。
いきたいチームが帝京だった自分は納得いってなかったけど、自分の実力はそれまでだったと。
めっちゃ泣いたのを覚えてます。
年が明けて1月、自分に思わぬ話が舞い込んできました。
『埼玉栄中にいった方がいい』と、同級生のお父さんが。
その同級生の兄が埼玉栄中出身で、全中にも出るような強いチームだと。
その時の自分の心境として、
『未知の選択をするのは嫌だ』『お金かかるだろうし』
これがリアルでした。
でも、両親も兄もなぜか栄をゴリ推しで・・・
と思ったら、自分の試合を監督が観に来てくれて、その日の夜に電話をくれました。
『ナイスゴールだったよ。受験頑張って。』
あ、もう受験することになってるんだ・・・笑
なんとか受験には合格し、埼玉栄での新たなスタートを切ることになりました。
この時は完全に流れに身を任せてました。
サッカーでも他のスポーツでも、それこそ人生でも同じことが言えますが、
何が起こるかわからない。
この出来事も、まさにそれが当てはまっているでしょうか。
さてこの先にどんなことが待ち受けていたのか。
ようやく、鼻をへし折られた。
この見出しをご覧になって分かる通り、思い知らされました。
自分なんてちっちゃい人間なんだなって、12歳のガキが。笑
『井の中の蛙』ってこのことかと。辞書に例で載ってもいいくらいです。
入学して3日くらいから練習に参加し始めました。
そもそもその時点で舐めてますよね。笑
連絡は取ってるくせして練習には行かない。
2日目の練習が、平成国際大での練習で、練習は2部練だし遠いし、行けるか分かりませんとか言って逃げようとしてました。本当に情けない。
案の定5月に怪我をして半年くらいサッカーができなかった。
トレーナーのいうことをきかずに、こそこそサッカーしてたから治りも遅くなった。
今でも最初に怒られたことを鮮明に覚えてる。
練習前と練習後は握手するっていうルールがあって、そこでスタッフに、
『お前は目を見て挨拶もできないのか』って。
今考えたら本当に恥ずかしい。
チャリ乗りながらポイ捨てをして、部室の裏でこそこそと立ちションとかして。
それが落ち着きだしたのは、1つ上の代で試合に使ってもらい始めてからかな。
スタッフにも人間性に関して、口酸っぱく指摘してもらって、少しずつだけど変わることができた。
今となってスタッフの方々は恩師だし、今でも大事にしてる言葉がある。
『今分からなくてもいい。これが分かった時は、お前が成長した時だ。』
今分からないことなんて、この世の中に沢山あるよね。
先輩とか職場の上司とか親とか、上の人から言われることってすんなり受け入れられなかったりする。
もちろんそれを受け止めることが正解だなんて言いたいわけじゃないけど、
実際に自分は、自分自身がどうあるべき人間なのかっていうのを見つけることができた。
自分以外の誰かのために。
1人のサッカー選手としてはもちろん、1人の人間として。
自分が変わることができたのは、周りのおかげ。
そう思うし、栄に恩返ししたい。
そんな心が芽生えた中学1年だった。
ついに結果が出た
そう、結果が出始めたのがこの時期。
1つ上の代で試合に出させてもらって、サイドバックで1年間プレーした。
学年なんて関係なく伸び伸びできるチームだったし、何より結果が出るし楽しかった。負ける気がしなかった。
『学総四冠』っていうのを掲げて、(さいたま市、埼玉県、関東、全国を優勝する。)
毎日毎日きついこと頑張ってきた。
四冠こそ叶わなかったけど、さいたま市と埼玉県を優勝することができた。
当時はあまり実感がなかったけど、埼玉県を優勝するって凄いことよ。
個人的にも埼玉県のトレセンにも何度か絡むことができた。
(もちろん選考会で毎回落とされ続けたけど!笑)
当時はあまり感じることができてなかったけど、人として変わることができたから結果がついてきた。
後付けではあるかもしれないけど、きっとそうなんだと思う。
とは言え、1つ上の代に乗っかっていた、その感じも否めなかった。
だから自分らの代では、絶対に『学総四冠』を。そう心に決めていた。
『一体感』
自分たちの代になってキャプテンに就任した。
先輩たちに素晴らしい経験をさせてもらって、今度は後輩たちに自分たちが何かを残す番だ。
自分よりチームを大事にする。自分の身を粉にする。嫌われ者になる勇気を。
色々と考えて、責任を持って毎日過ごしてきた。
でもそう簡単に上手くいくはずがないよね。
小学校でやってたキャプテンとは訳が違って、、、
チームで起こる責任は全部自分が背負っていたし、何よりまとまりがなかった。
中3とはいえ、15歳のガキよ。
練習に来ない奴もいるし、自我を大切にする、なんだか点でバラバラなチームだった。
プレーで示すことはできない自分は、行動と口で示すことしかできなくて、チームメイトには不甲斐ないキャプテンと映ってたと思う。
当時、とてつもない孤独感を感じていたことに嘘はない。
頼れる仲間がいるとは胸を張って言えなかった。
自分たちの代は、仲がいいとは言えなかった。
当然の如く結果は出なかった。シンプルに弱いチームだったと思う。
創部してから初のさいたま市予選敗退。屈辱でしかなかった。
この1年ってのは、たぶん挫折って呼んでいいと思う。いや、そうすべきだ。
この記事を書いている自分以外でも、これが挫折だという人はいると思う。
ただ、ありきたりのことなんだけど、これを晴らすには、サッカーしかない。
サッカーでの借りはサッカーでしか返せない。
これって結構その通りだと思ってて、
親のリベンジで子供にサッカーやらせるのも同じことだと思ってんのね。(例え下手)
じゃあ、僕らは借りを返すことができたのか。
まだ中学の3年間が終わっただけで、高校の3年間が残っている。
中高一貫だから、『弱いチーム』で終わらず、同じメンバーと再び3年間を過ごすことができる。
今では家族とも呼べる仲間になったが、どのようにして家族になっていったか。
次回は高校へ進みということで今日は終わりにさせていただきます。
ありがとうございました!
2020.9.4 渡邉 宰